「遊」とか「狂」とか言われる行為は、もちろん反体制、脱秩序でありながら、闘争的な反措定ではなかったゆえに、その独自な存在はむしろ許されやすかったといえよう。そういう意味では、きわめて腑甲斐ない存在としか見えないが、問題を個人に返して考えるとき、それは群れること、くみすることの不得手な、燃えにくい孤独な内奥の突出を感じさせるものがある。それは行為を持たないのではなく、まして沈黙でもない叛逆は自嘲的であり、むしろ身を賭けた脱出、または醒めきった心に生まれた狂気というにふさわしい。(馬場あき子『中世の遊狂精神にふれて』より)