画家・内田あぐり AGURI UCHIDA

日本画家・内田あぐり オフィシャルWebサイト|text

「わたしが描きたいもの、それは人間の存在である」 (2010)

text : 内田あぐり

 「現代の日本画」についての文章を頼まれたことで、わたしは「日本画」という言葉とあらためて向き合うことになってしまった。世間では「日本画家」と言われ、美大の「日本画学科」で教鞭をとりながら、わたし自身は「日本画」というカテゴリーのなかで絵を描いている意識はあまりない。むしろ、わたしの絵画を探求していこうという気持ちだけが常にある。そんな訳で、この数週間は思いついた言葉を日頃メモしているノートを捲りながら、「日本画という絵画」への反芻を繰り返している。わたしにとっての絵画とは、そして日本画とはいったい何だろうか、制作している中から書いてみようと思う。

 わたしが描きたいもの、それは人間の存在である。粉飾された現代社会のなかで、生きて行く人間のかたちや有り様が、わたしの絵を組み立てる大切な素材となっている。今描いている作品は昨年に引き続く連作で、様々な人間のかたちや果てしないその生成を描いている。アトリエは夥しい枚数のドローイングやエスキースが散乱し、横六メートルの画面はそうした素材と共に床や壁を埋め尽くしている。薄く胡粉を引いた雲肌麻紙に、人体や空間のフォルムを探るプロセスは、絵画を構成する大切な土台となっていく。

 素描やドローイングは、新しい発見や感動を画家に与えてくれる。わたしは素描やドローイングをよくするが、人間の肉体を見ること、観察することで、いろいろな人間のかたちに接している。絵のモデルと言われる人々は役者や舞踏家、表現者が多く、時には街で見つけて声をかける市井の人だったりする。絵のモデルがいなかったら、古今東西の優れた人間表現の作品は生まれて来なかったであろう。目の前にいるモデルが呼吸している、動いている、汗をかく、目を閉じている、そうした生身の肉体を見ることでわたしの素描は生まれる。素描は鉛筆や木炭というシンプルな素材で、動くモデルのフォルムや空間、あるいは肉体をラインだけで表すこともあり、わたしだけにしか見えないものを描いている。それらはわたしの血肉となり、新しいフォルムとして作品へ産み落とされていく。

 何を問題として、どのように描きたいのか、そうした表現への問いかけを根底に、すべての絵画表現は材料によって裏打ちされている。和紙、岩絵の具、墨、膠という日本画の材料や技法、表現は他の絵画よりも親密な関係にあるようで、現代の日本画においては様々な表現が生まれている。岩絵の具の優れた物質性やクラシックな墨の技法に触発されて新しい表現を生む者、絵の具が持つ美しい色相を生かす者、油彩との比較において日本画は材料や技法の独自性にあると考える者など、材料と表現の関係は画家それぞれである。わたしの場合は、乾いた絵の具の粉や植物繊維の和紙、水がわたしの体質にとてもあっていること、そして表現を生むための必然的な手段の一つと考えている。日本画の絵の具は天然の土や鉱物、植物から作られているものが多く、絵の具や紙、墨、筆などはかつて朝鮮半島から渡来したものであり、日本の風土や文化に育まれて現代に至っている。現在、絵の具は広く顔料という名称で、ニューヨークやロンドンなどの欧米や中米、アジアの国々でも作られ、地味ではあるが膠を接着剤とした作品も生まれている。海外へ出かけたおりに街の画材屋を覗くと、その国独自で作られる絵の具(顔料)や膠、金箔に出会い、中には顔料だけを扱う専門店すらある。ガラス瓶に入ったヴィヴィッドな色をした顔料が、棚の上にずらりと並ぶ様は、日本の絵の具屋とたいして変わらない。紙も世界中で作られ、その国に自生する植物を原料とした独自の手漉き紙があり、中南米の先住民文化のなかではプリミティブな紙への造形が見られて面白い。こうした材料は世界中の至るところで作られ、普遍的な存在である。

 現在の日本では、岩絵の具や和紙、筆などの多くが、資源不足から原料を海外や中国、韓国に頼っている。その現状を思うと、はたして日本独自の材料と言えるかどうかは疑問であり、むしろ混血材料と言って良いかもしれない。また、制作用の和紙や天然岩絵の具、支持体であるパネルの値段がこの何年かで急騰し、多くの画家たちにとって現実は厳しいものとなっている。画家の中には、膠や和紙とは違う新しい材料を使いながら、自身の表現に挑んでいる者もいる。それでも職人たちの努力と伝統的技術により引き継がれ、種類も豊富で品質性が高い日本の絵画材料となっていることは確かである。海外の作家の中には日本の筆と和紙や墨による仕事も見られ、日本の材料への関心も深い。現代の画家の表現に様々な影響と可能性をもたらしつつ、材料は時代を反映しながら軽やかに国境を越えている。

 かつてわたしは、胡粉の上に墨の垂らし込みという古典的な技法で、人間の陰影を表現していた。それは西洋の合理的な光と影の考え方ではなく、肉体に宿る精神性を表すものであった。時代を逆行するような技法は新しい表現を生み、わたしの制作の出発点となっている。その後、わたしの作品は時と共に変化をしてきたが、有機的な材料と技法は変わらずにわたしの表現を支えている。植物繊維が絡む和紙には皮膚感覚があり、絵の具や墨、水は和紙へ滲みこむことで思わぬ偶然性を生む。獣のコラーゲンから抽出された膠は柔軟性に富み、絵の具の発色を高める。時には描かれた表面を傷付けることで、神経に直接触れたいという欲求もおこる。画面を床に寝かせて描く行為は、材料や技法と一体となり、表現を生む。

 わたしの作品は、人体のフォルムの解体と再生を繰り返し、空間を構成している。余白に描かれた白描は、男でも女でもどちらでもないフォルムである。現実の社会は人間の肉体に深く影響を及ぼし、それを反映している。体は社会の有り様をデリケートに映す絵画のようなものと感じている。と言うよりも、わたしが人間の現実に接することで、かれらの肉体を借りながら、わたしの体を通して思想や感情を作品に吐露している。こんなことを考えながら、わたし自身の絵画を組み立てて行こうと思っている。

 これが、わたしにとっての「日本画」であり、絵画でもある。

日本現代文化論―――(8)現代絵画(日本画編)
(図書設計No.79、The society of Publishing Arts 2010_No.79)

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